Translate »
  • Chinese(Simplified)
  • English
  • German
  • Italian
  • Korean
  • Russian
  • Thai
特集記事
編集部が取材した記事を楽しむ事が出来ます。

【ランクル紀行】難波 毅

2015.04.02

世界のランクルからこんにちは

オーストラリアの“国民車”ランドクルーザー

02_00

(左)スノーウィマウンテン水力発電計画の土木工事現場で、巨大なダンプトラックに挟まれているランドクルーザー40系(1960年代)

 

13台のランドクルーザー

1958年5月1日はオーストラリアのランドクルーザーにとって運命の日だった。

この日、シースホールディングスは戦後オーストラリアの国家的事業であったスノーウィマウンテン水力発電計画でオーストラリアの会社として初めて契約を勝ち取った。会社を率いるのはレスリー・シース。一代でオーストラリア最大の土木建設会社を立ち上げた立志伝中の男である。

レスリーは以前、山の中で運転した時にランドクルーザーの性能の良さに惚れ込んでいて、自分が契約を取ったらこの車を使おうと決めていた。早速13台のランドクルーザーFJ25を、当時トヨタ車の輸入を独占していた小さな輸入業者であったB&D Motorsを通して購入した。

到着したランドクルーザーには、ただひとつの交換部品どころか英語の修理解説書さえ用意されていなかった。13台のうち12台はすぐに現場に配置されたが最後の1台はパーツ取り用として取って置かれた。この車は何回も分解されは再び組み立てされ、“シースの13番車輌”として有名になった。最終的には部品として売られたという。

02_00A

スノーウィマウンテン水力発電計画の土木工事現場の冬は厳しかったがランドクルーザーはタフであった。写真はFJ25。1959年から1960年代初期の撮影だと思われる。

「初めから問題がなかったわけではない」、「スペアパーツ不足を克服するため“共食い”という手段をとった。13台目のFJ25は他の12台のためのスペアパーツ用だった。」、「何回も解体されてはまた組み直された」。のちにレスリーはこう語っている。

トラブルは前車軸とギアボックスに多く発生した。当時、シースはランドローバーやウィリス、オースチンチャンプも使っていたが、これらもやはり故障した。しかし、違いはここにあった。車輌トラブルを報告すると、トヨタは即座に技術者を派遣して問題が解決するまで現場で作業員と暮らした。修理部品を日本から空輸し、故障した個所は原因を追究するために日本に送り返したのだ

スノーウィ計画をスケジュールどおりに進めるためには、冬季に雪で隔絶された山奥へ毎日労働者を運ばなければならなかった。これを確実に行わなければ仕事の挫折を覚悟していた。ランドクルーザーは見事に期待に応え、作業が途切れることはなかった。1959年冬には、トゥーマーチューミット・トンネルの建設において、トンネルを6日間で526フィート掘削するという世界記録を打ち立てている。

03112811

スノーウィマウンテン水力発電計画の水路建設現場の初期の40系(1960年代初期)

1st_LC_03072205

シースが建設したスノーウィマウンテン水力発電計画のダムを前にしたランドクルーザーFJ25。シースが建設現場で初めて使った13台のFJ25のうちの1台。(比較的最近の写真)

ユーザーから販売者へ

スノーウィマウンテンでのランドクルーザーの働きぶりをみたレスリーは、性能が良く価格競争力があるので、当時、資源開発のために内陸部に入っていく道を切り開く必要があったクイーンズランド州のアウトバックでの使用に向いていると判断。取締役会で一つの提案をした。

「これはワークホースで乗用車なんかじゃない。農場のトラックやトラクター同様、人々にとって必要なものなんだ。農家の人はこの車をいろいろな目的で使える。町へ買い物に行くときに牛乳も運んでいける。3人が楽に前に座れ、後ろには1トンの荷物が積める。丈夫な機械道具だ」。

B&D Motorsがビクトリア州でわずか数台の車しか販売できず、他地域にはディーラーを持っていないということも分かり、レスリーは1959年3月、トヨタ商用車のクイーンズランド州での独占卸売権を獲得した。

いざ販売となったとき、取締役会は限定数を注文して様子をみて、さらに発注をかけたらと提案した。日本の自動車工業が現在のように大きなものになるということをほのめかすものは何もなかった。ランドローバー社がオーストラリアの四輪駆動車シーンを独占していて、ウィリスジープが余った部分を拾い上げる状況であった。そんな市場に3番手が入っていく余地などあるはずがないと誰もが考えていたのだ。

レスリーはこのような制限を嫌い、自分の資金40,000ドルで25台を注文し、シース販売を設立して販売を開始した。とにもかくにも、こうしてランドクルーザーはオーストラリアに本格的に輸入されるようになった。
05_20C_1
1979年、シドニー・ターレンポイントに完成したシース・トヨタの新しいコンピュータセンターのオープニングで挨拶するサー・レスリー・シース。

実物なら負けない

シース販売は卸売に徹して小売りはしなかった。そのためにディーラーネットワークの構築が急務であったが、そんなに簡単にはいかなかった。また、無名のブランドの商品を売るには実物宣伝しかないと考えた。半日かけて牧場に行き、車を実際に使ってもらう作戦だった。

当時の日本製品に対しては、大部分が西洋のデザインの劣悪なコピー商品であるという認識が広く知れ渡っていたし、さらに先の大戦以降、日本に対する腹立たしい思いがオーストラリアには充満していた。

実物宣伝でユーザーのランドクルーザーに対する関心はかきたてられた。「いいモノはいい」これは誰も否定できない。評判は口伝えに広まり、注文は徐々に増え、ディーラーになってくれる会社も出てきた。1959年にクイーンズランド州で36台のランドクルーザーが販売され、ディーラー数は13になった。

 

全国展開

オーストラリアのすべての州に展開したがっているというトヨタの意向を知り、1961年5月、レスリーは日本へ行き、そこでトヨタ自販初代社長の神谷正太郎と2年間の契約に調印した。シース販売が、トヨタが製造するすべての製品の取り扱いを可能にする内容だった。この契約でシース販売はトヨタ自動車のオーストラリアにおける正式のディストリビュータとなった。

ところが、シース販売は最初から乗用車の販売にはあまり関心がなかった。トヨタ側からみればシース販売の投資額にも不満があった。1962年11月にシースはオーストラリアでの乗用車の権利を失ってしまう。しかし、トヨタの商用車に特化したのは結果としてはよかった言える。

レスリーは早くからマーケティングの重要性に気づいていて、当時としては破格の予算を与えた。一方、サービスネットワークの全国展開も、奥地での販売には不可欠だとして素早く実行していった。10年のうちにアウトバックにおいてもスペアパーツが素早く入手できるようになり、このことがオーストラリアにおけるトヨタの成功の基礎になった。

その後、全国にディーラー網を築き上げ、1979年、シース販売は商用車市場でのトヨタのシェアを首位にまでもっていった。その後現在までその座を明け渡したことはない。
107764_LC45_outback
アウトバックのダートを駆け抜けるHJ45。トヨタカントリーを象徴するシーンだ。

幸せなクルマ

1960年代、70年代のオーストラリアの国土開発において、特に開発が遅れていたアウトバックでは、走ってくる車はラジエターグリルに「TOYOTA」の文字がある車ばかりだった。信頼できる車、アウトバックの開発になくてはならない車はその車、すなわちランドクルーザーだった。今でも地元の人自らがアウトバックを「トヨタカントリー」と呼ぶほどだ。

オーストラリアのひとりの男が1台の四輪駆動車に惚れ、その将来を信じそれに賭けた。時を同じくしてトヨタは1台の四輪駆動車を輸出の先兵とし、その後の乗用車輸出の橋頭堡を築こうとしていた。そして、その会社は自動車ビジネスに何の経験もない1人のオーストラリア人の熱意に賭けた。

つくり手の情熱、販売する側の情熱、そしてユーザーの情熱、すべてがうまく回転してランドクルーザーは現在の圧倒的な地位を築き上げたのだ。(文中敬称略)
108265_LC45_escort_vehicle
ピルバラ地方の鉄鉱山へ向かう巨大な重機を運ぶトラックを先導する45ロングバン。トヨタが作ったモデルではなく現地のコーチビルダーによるカスタムメイド。

108274_47V_with_DC-3
ケープヨーク半島の先端バマガの空港で荷下ろしの作業中の47ロングバン。飛行機で運ばれた物資をランドクルーザーがその先へと運ぶ。

20080327_EHM_100_75_02
クイーンズランド州の露天掘り金・亜鉛鉱山で、最奥部の採掘現場から鉱石を運ぶ120トンダンプの脇に待機するランドクルーザー。右のトゥループキャリアはセカンドシート用のリアドアを追加したカスタムモデルだ。

IMG_3261
まだ朝明けきらぬなか仕事へ向かうHZJ79ユート。道具として使い倒されている幸せなクルマである。

1020674_200_Tumit_No3
同じく、シースが建設したスノーウィマウンテン・チュミット第3発電所と最新200系。